既存の橋を渡らない

ホンダ を一代で築き上げた 本田宗一郎 は、「他の真似は絶対しない、99 の失敗に 1つ の成功」 と公言していたが、

1960年代に オートバイレース の 全クラス を制覇した。独創的で、時計のように精密な エンジン と云わしめた構造は、

突飛なものが多い。50cc DOHC 4バルブ、3気筒、5気筒、250cc 6気筒エンジン、楕円 ピストンエンジン など

奇を衒ったように観えるが、技術者の探究心の賜物なんだそうな。レーシングマシン は走る実験室だと本田氏は言って

居られたが、今は市販車のほうが総合的にみると上なのだそうな。1960年代、ホンダ の本拠地、鈴鹿サーキット で

行なわれた耐久オートバイレース の大本命、ホンダレーシングチーム 優勝の夢を打ち砕いたのが、吉村秀雄 率いる

ヨシムラレーシングチーム だった。九州から遥々やって来た ヨシムラ という聞いた事もない レーシングマシン が、

満を持して開発した ホンダ の ワークスマシン を ストレート で軽く抜きさっていった。当然、レース では敗北したが

負けたのは仕方がない、ホンダ の バイク を改造した ヨシムラ の マシン が速かったからだと、本田宗一郎は

納得した。自前の マシン の何処がいけなかったのか? と 開発エンジニア に尋ねたところ 「判りません」 の返事が

返ってくるなり烈火の如く怒りだし、「馬鹿野郎、お前が担当してんだろ!判らないのなら、やめちまえ!」 と

怒鳴りつけたそうな。本田技研工業の役員になっている方々は、本田宗一郎に殴られたり、スパナ を投げつけられたりと、

熱血 エンジニア 集団 (根性でなく) だったそうな。九州の田舎の 無名エンジンチューナー だった吉村秀雄氏は、

ホンダ を打ち負かした時点で伝説になっていた。エンジンチューニングは難しいですか? との問いに

「ゼロ戦の エンジン整備 よりかは楽かな」 と答えた。第二次大戦時、吉村氏は 栄製 星型エンジン の整備士

だったそうな。高性能だが、非常に繊細で クセ のある難儀な エンジン を整備する事で、腕を磨いていた吉村氏。

航空機エンジン から ヒント を得た、渦を巻きながら排気をする世界的に有名な ヨシムラ サイクロンマフラー を

製造販売。工芸品のような繊細な仕上げと、排気音を抑えた馬力の上がるバイク用マフラーは、高価格にも関わらず

売れに売れた。吉村氏に チューニング された エンジン内部は、必要なところに改良を加えたり、形状を変更したり、

吸排気ポート内面を手で研き、鏡面加工された ポート、バルブ類 など、まるで オブジェ の様な輝き。

ポート なんぞ磨いたって変わらない、梨地のほうが、いんや、燃焼爆発スピード は速ければ早いほど良い、スクロール

エンジン が最も効率的、そうじゃない、ツインスパークとシングル だったら、4バルブか 5バルブか?、多けりゃ好い

ってものか?。 何故 ingenium が動くか誰も判らない、動くから、燃焼エネルギーを、 じゃないのだそうな。

つづく。